命への畏敬と感謝
タイ最大のコングロマリット,農業や食料品の分野を中核事業としているCPグループ会長の私の履歴書に。
養鶏事業の成功談が載っている。
養鶏を機械で自動化するには「鶏の大きさを揃える」必要があった。
タイの地鶏は大人になるに100日かかり、大きさがまちまちだったからだ。
米国から狭い所でも大量飼育できて、8週間で1.5kgに育ち、同じ大きさになる「ブロイラー」を採用した。
これまでタイの農家では1家庭で鶏100羽飼育が限界だったが、ブロイラーなら1家庭で1万羽飼育が可能になった。
このブロイラーで機械処理しやすく、養鶏の自動化ができ、鶏肉事業の発展につながった。
嬉しいことは高価だった鶏肉を農村でも手軽に食べられるようになったことだと述べる。
小生の子供の頃、鶏はかっては家庭で飼育し、ハレの日に父親が処分した。
肉は噛みごたえがあったがたまらなく美味しく、家族で有り難く食べたものだった。
そこには一緒に暮らしてきた鶏の命に対する感謝の念もあったと思う。
昨今の鶏肉はブロイラーは論外だが、評判の地鶏でも子供の頃食べた鶏の味は望むべくもない。
鶏肉は機械化、自動化により安く口に入るようになったのかもしれないが
必死で生き抜いてきた鶏の命に対する尊厳と感謝の念が薄れてしまったのでは。