述史新論

保田與重郎氏の述史新論(2003年)に
建築について述べている項がある
一般国民の間では、ある時代には儒教を住家建築の原理とした
日本建築の原理のすべてを、儒教に帰するのは偏向の論である
ある種の庭や書斎は儒学や老荘の趣味にもとづいていた
また農家の建築の根源的な思想が古神道である事実は、封建末期より文明開化の
時代にかけても失われなかった
別の例でいへば、わが文人畫は紙の上の繪畫藝術でなく、精神的高尚な今生の
くらしの圖式だった
今日の建築には原理とか思想というものが果たしてあるのか
今日の建築家は、人道上の何ごとかを考えて家屋というものを建てるべきとしているのだろうか
その原理があるとすれば精神上の文明と全く別個の発想のものである
肉体の病患を治療する技術と、心の疾患を治癒する仕法が分離した近代医学は、
近代の人間の不幸である
もし今日の建築家が建築の本義を考えたなら、世界中の住宅不足の問題は、とっくに
解決すると思う
医者が昔の東洋の医聖伝統の思想を、少しだけ思い出してくれたなら、新薬の薬禍と
医院病床の不足という、これも世界的な問題少しは明るくなるだろう
私はこの問題解決の仕法は大学改革当たって、形態組織を云々せず、人間尊重の教育の
本姿に立ち返れというような、近来の無責任な事務論でない
我々は国や政府によってつくられ、くらしているのではなく、国や政府は我々がつくっているのである
もりたてたいと思う
これは新憲法の思想でなく、封建時代の武士(さむらい)の自覚であり、彼らの修身教則の第一條であった
「さむらい」という昔の人の考えは、今日いう、「サムライ」というものでない
封建の武士が「さむらい」とあへて自称したのは、以前朝廷に仕えて、身分さほど高くないものを
朝廷の「さむらい」と称えたことに由来している
何となく朝廷に近くいる想像に、淡々とした心の安らぎもったことから、こういう自称が生まれた
これは謙虚な自称である
医学界はは心と体は別々のものではないという考えから心療内科が有り、東洋医学も見直されてきている
米国では東洋医学の鍼やお灸、漢方薬など代替医療が盛んである
建築では住まい手の心にまで踏み込んだ建築は当分生まれそうに無い
清水建設(株)HPのシミズ・ビジョンに
建造物を活用し生活する人々がいつまでも幸せであるような空間を創出いくこと
それこそが清水建設(株)の使命だと考えていますとある
またコーポレートメッセージは「子供達に誇れるしごとを」である
建築家も生活する人々が幸せに健康であり続けられるような建築を子供達の未来のために
提供して欲しいものだ